陸上自衛隊に入隊するころ
平成11年と言えば就職氷河期まっさかり。
高校卒業してもどうせ就職できないし、国公立の大学に合格する頭もないんだから、簿記の資格でもとって、雇ってもらえるところを探しなさい。と言われていた高校生時代
家には頭のいい弟が二人いて、まだ中学生だったけど大学行くのは既定路線。
後ろに二人控えていて私立の大学なんかには通わせてもらえない。
かと言って、会社員になるのはなんか違う気がした。
まだ幼いころ、祖父ちゃんがよく戦争中のころの話を自分にだけしてくれていた。
ほかの孫たちはつまんなそうにするのに、俺だけ興味津々で聞いていたらしい。
戦争末期に巡洋艦にのって、飛来してくる戦闘機と機関銃で戦っていたと。
その時、まだ小学校低学年だった俺に、コサインやサインやタンジェントがどったらという話しを交えて、どうやって戦ったか話していたけど、コサインやサインやタンジェントが何者で、なぜ機関銃で戦闘機と戦うのに大切なのか理解できたのは、自衛隊に入ってしばらくしてからだった。
ほかには、「てつかぶと」が割れたとか、穴があいたとかいう話しがあって、子供のころは「昔の日本の軍人さんは、兜をかぶって戦っていたんだ」と、頭の中の日本軍はみんな武者兜をかぶってるファンタジーな世界を想像していた。それが違うとわかったのは、しばらくしてからだった。
でも一番印象的だったのは、最後の出撃の時、瀬戸内海で一夜を過ごした翌朝、明るくなったら戦艦も他の巡洋艦もいなくなっていたということで、置いてかれて、くやしくて涙が止まらなかった。という話。祖父の顔がちょっと不思議な感じだった。でも、なんか小さいながらに俺も、その気持ちがわかるような気がしていた。
自衛隊に入ろうと思った。
祖父ちゃんの話していた軍隊じゃないけど、もしかしたら祖父ちゃんの気持ちがもっとわかるかもとも思ったのかもしれない。
それに、実家にもあまり居たくもなかった。
だから地元で就職先を探す気にもなれなかったし、地元以外で就職先を探すつてもなかった。
寝るところもある。食べることもできる。自衛隊はうってつけだった。
でも、時は就職氷河期。自衛隊も例にもれず、試験合格の倍率が上がっていた。
まあ無理でも一応挑戦してみるか。と。
高校の先生は通さずに直接、地元の募集事務所に応募した。
いまはどうだか知らないけど、当時その募集事務所は入隊希望者のために試験対策勉強会を開いていてくれていた。
高校3年間、まともに授業を受けた記憶がなかったから、高校に入って初めて勉強をした気分だった。しかも、学校じゃなくて自衛隊の募集事務所で。
それからほぼ毎日、学校おわりは募集事務所に行って、現役自衛官さんに勉強を教えてもらうという奇妙な生活サイクルを経て試験に臨んだ。
結果は不合格。
曹候補士になる試験だったが、ちょうど自分の頭の上で線が引かれたらしい。
まあいいか。一般2士は合格したし。
とりあえず寝床はあって食べていけるだろう。
ある日、いい話があると言って、募集事務所の自衛官さんが家に訪れてきた。
「繰り上げ合格したよ。」と。
合格していた人が一人辞退した。と。
「警察と併せて受験していて、自衛隊は保険みたいな感じだったのかな。」と。
学校の成績が悪くて親に心配され、
高校卒業できるかと親と先生に心配され、
このまま実家でプータローになるのかと、いろんな人に心配されてたと思う俺が、
結果的にクラスで一番最初に就職先が決まった。
祖父ちゃんの話を思い出して思い立ち、
人生で初めて自分のことを自分で決めたと実感したのが、俺にとっての入隊。
自分で立てた目標を自分の努力で達成したと、人生で初めて実感したのも入隊。